utsu-cafe’s diary

うつと暮らす日々

生きにくさ

僕はしばしば「生きるのが無理」ということを口にする。

以前はダイレクトに「死にたい」と言っていた。

そしていつからか「死にたい」という直接的な表現を憚って「生きるのが無理」という言い方になった。

 

これは単に言い回しが変わっただけ、と僕も思っていたのだけれど、実際ここには何らかの意味があるように、最近は感じている。

 

歳をとって判った……というか思い知らされたことがある。

人間が生きるのには、絶対に必要なものがある。

 

金だ。

 

何を今更、当たり前じゃないか、といわれるだろう。

僕もそう思う。

しかしかつて、生活そのものにかかる金を、親の庇護に任せていた少年期には全く判って居なかった。

そして社会に出て、金は人の命より重い……とまでは言わないものの、限りなく等価に近いのだな、と感じた。

少なくとも、愛や情けよりもよほど命と等価なのだ。

 

金を積んで愛や情けは買える可能性はあるが、命そのものは買えない。

そういう意味で等価ではない。

しかし愛や情けでも命は購えないし、命に近しいものならば金で買えるのだ。

 

この世界では……二十一世紀の日本でも、生きているだけで対価を支払い続けなければならない。

それが僕は本当に嫌だ。

 

しかし実際に嫌なのは、多くの人間が生きている中で、只人にすらなれずに存在している自分自身だ。

当たり前のように、道端を歩いている有象無象にすら該当できない、惨めさの権化なのだ。

 

自分には価値がない。

通りいっぺんの生き方すら果たせずにいる。

そんなことで「死にたい」などと言える資格はあるか?

今の僕にとってはノーだ。

 

死にたければ死ねばよいのだ。

この世界は、自分にとっては所詮そこで終わる。

来世も前世もなく、自分の一回きりのステージを演者の死で閉じる。

その死は他人の演目の演出にささやかな影響を与えるかもしれないが、しかし共有された世界の殆どには何の影響もない。

僕のステージが終わるだけだ。

 

しかし自らの死を望んでいたことはあるにしても、或いはそれを失敗したとしても、やはり生きてしまっている以上は恥にまみれて居ざるを得ない。

 

僕は死すら踏み切れない、臆病者の敗残者なのだ。

白い天井を眺めた時、不安定な視界と不鮮明な思考の片隅で、先ず感じたのはどうしようもない挫折感と絶望感だった。

 

その辺りはいずれ話すかもしれない。

 

ただしかし、今は金がないから死ぬのも、ある意味で正当な死だ、と思う。

死は自由であり解放だ。それだけは揺るがない。

死にたい人間などいないのかもしれないが、しかし事実として死は解放なのだ。