utsu-cafe’s diary

うつと暮らす日々

いつかがあるか

明日こそは、来年こそは、という思いを持ったことがある人は多いと思う。

だがしかし、僕らの生きる日常が永遠でないのは明白な事実なのだ。

 

例えば、不治の病が見付かる。

例えば、大災害が起きる。

例えば、仕事を馘になる。

 

なんでもいい、こうした出来事との対面で日常の儚さを思い知り、不幸を呪う。

それが普通だ。

 

しかし、突然の不幸を不幸と感ぜない人がいる。

それはまさに、不幸のさなかにある人だ。

生きることになんらの意味を見出だせず、然りとて内発的にその苦境を打破することもできない。

生き地獄……他人からどう見えるかはさておき、こうした地獄にいる人は、むしろ外発的に破綻と終焉が訪れることを願ってすらいる。

自ら死ぬのは難しくとも、他者依存として殺されるなら言い訳が立つ、と。

 

自らの生に意味を見出だせずにいれば、畢境この考えに至るのは自然である。

自分ひとりさえ救ってくれぬ神に、自分ひとり分さえ積極的意義を与えてくれぬ生に、何の価値があろうか。

ある哲学者は「人生に意義を与えるのは己自身だ」と宣ったそうだが、それは外的要因に恵まれた人間の、勝者の理論に過ぎない。

人生の本質は「そこに意義など無い」というものだ。

偶々うまく生きられるか、苦に病んで呪詛の果てに死ぬか、行動と情勢の揺らぎの重なりに結末が生み出されるだけなのだ。

 

成功者ほど、自らの運を努力や意志に置き換えたがる。

いかほどに功成り財積み果てたとしても、かような時間は死という絶対により終わる。

そこに何の価値があるか。

成功者として死すれば、必ず後人の謗りと妬みを買う。

名も無き一人として死に臨み、裁きの御前で「何もなし」と答えることが至上の愉悦なのだ。